衛生仮説と旧友仮説のお話

衛生仮説


都市化、公衆衛生の普及、医療や農業技術の高度化、安価な食料の普及などに伴い、現代人の生活環境は昔と比べて大きく変化しました。

その結果、所得も増え、平均寿命も伸びましたが、現代病と呼ばれる一連の疾病に悩まされるようになってきました。

このような現代病のうち、特にアレルギーの原因について研究してきた英国の科学者が唱えた説が、衛生仮説と呼ばれるものです。

 

これは、兄弟姉妹の多い中で育った子供のうち、弟や妹ほどアレルギー疾患にかかりづらい一方で、

長子や一人っ子にはアレルギーが多いという観察結果から生まれた説です。

この説によれば、末子ほど他の兄弟姉妹由来の細菌に小さな頃から暴露する機会が多く、

そのために免疫系が鍛えられる結果、アレルギー疾患にかかりづらくなるという事です。

 

  大家族
  大家族

「幼少時の過剰な衛生状況がその後の過敏体質を生む」という説は、

どのような社会においても多かれ少なかれ経験知として

昔から伝えられていましたが、

衛生仮説の登場によって

科学の世界においても真面目に議論されるようになり、

最近はこれを補強する多くの観察結果が出てきました。

例えば、1989年に当時の東ドイツと西ドイツが統合しましたが、

統合時における東ドイツの生活水準は西ドイツよりもずいぶん低く、

衛生環境にも大きな差がありました。

しかしながら、花粉症患者の数は、

衛生環境の進んでいた西ドイツの方が

東ドイツの34倍も多かったそうです。

その理由の一つとして、

東ドイツでは多くの乳幼児が保育所に預けられていたためである、

と考えられています。

すなわち、共産主義国家の東ドイツでは働く女性の割合が高く、

多くの乳幼児が保育所に預けられていたため、

環境からの微生物に暴露する機会が多かったという事です。

 

また、その後の多くの疫学調査から、牛や豚に接する機会の多い農家で育った子供達には、都市部で育った子供達に比べて、

明らかにアレルギー疾患を持つ子供が少ない事も分かって来ました。

 

このような一連の事実から、幼少時における環境由来の「無害な」微生物による暴露が免疫系の発達を促し、その結果、

アレルギーに代表される過敏体質に陥るのを防止すると唱える衛生仮説の説得力が増してきました。

旧友仮説


最近では、衛生仮説に代わって「旧友仮説」と呼ばれる説も登場しています。

旧友仮説は、人類の長い歴史において長期にわたって腸管や皮膚、鼻腔~口腔などに住み着き、

知らず知らずの間に人類に良い影響を及ぼしてくれていた細菌種を「旧友」と見立て、

抗生物質などによってこれらの旧友たちが失われる結果、アレルギーに代表される現代病の原因となっている、という説です。

 

旧友仮説では、特に出産~幼少時にかけて定着すべき細菌種が失われる事により多くの現代病が引き起こされるのでは?と考えます。

幼少時の抗生物質の投与や、あるいは帝王切開などによる産道由来細菌への暴露機会の消失などが原因で、

旧友たるべき細菌種の定着が阻害され、本来であればこれらの細菌によって維持されていた免疫系の恒常性が破綻、

あるいは免疫系の成熟が起こらず、本来は攻撃すべきでないものに対して過剰な反応が生じてしまう、という事です。

その結果、食物アレルギー、クローン病を含む炎症性大腸疾患、1型糖尿病などの自己免疫疾患、

さらには自閉症のような精神疾患を引き起こし、しばしば不可逆的な結果をもたらす、と唱えます。

 

最近では、ピロリ菌は胃炎~胃ガンの原因菌として排除の対象となっています。

しかしながら、ピロリ菌の撲滅が成功しつつあるのと軌を一にして、

これまでは殆ど見られなかったある種の病気が生じるようになりました。

それが、逆流性食道炎です。

 

逆流性食道炎は、

強い酸性である胃液が胃の噴門から逆流して食道に流れ込み、

炎症症状を呈する病気です。

これが何度も生じると、食道粘膜を覆う細胞に変化が生じ、

腸上皮化生と呼ばれる形態的変異を伴って、

最終的にガン化する確率が高くなります。

 

ピロリ菌は、普通の細菌では住めない胃粘膜のような低pHの環境に常在します。

その戦略は、ウレアーゼなどのタンパクを菌体表面に発現する事によって

胃酸のpHを中性化し、自身に対する胃酸の攻撃を弱体化させる、というものです。

従いまして、ピロリ菌を除菌すると胃が本来の胃酸分泌力を取り戻すため、

胃酸過多となり、逆流性食道炎を引き起こし、食道粘膜を痛め、ガン化する、

というメカニズムが提唱されています。

 

ピロリ菌にも多くの種類があり、全てのピロリ菌が胃炎~胃ガンの原因となる訳ではありません。

胃潰瘍や胃ガンの原因となるピロリ菌はCagAと呼ばれるタンパク毒素を産生するタイプの菌で、日本を含む東アジア地域に多いのが特徴です。

CagAタンパクはピロリ菌によって胃粘膜細胞に注入され、細胞内シグナルを攪乱し、最終的にはガン化を引き起こす原因となる、

と考えられています。

最近になって、CagAタンパクは胃ガンの引き金となるだけでなく、血流に乗って全身に運ばれ、

心臓や神経系の病気を引き起こす一因となる事も分かって来ました。

 

一方で、CagA陽性ピロリ菌感染者の多くが胃ガンになるかというとそうでもなく、感染者の90%以上は胃ガンとは無縁の人生を送ります。

また、日本のピロリ菌の多くがCagA陽性ですが、世界的に見ればCagAタンパクを産生しないタイプのピロリ菌も多く、

これらは基本的に無害な常在細菌であるとの見方もあります。

 

いずれにしましても、ピロリ菌が居ても居なくても発ガンの可能性が生じるという、誠に悩ましい問題ではあります。

また、ピロリ菌は多くの胃ガンの必要条件ではありますが、塩分の過剰摂取やストレス、喫煙や過度の飲酒など、

他の条件が加味して発現する病でもあります。

これらの条件を排除すれば、ピロリ菌はおとなしく共存してくれるのかも知れませんね。

 

衛生仮説にせよ旧友仮説にせよ、外部から内部からを問わず、

微生物による刺激~定着がヒトの生理学的反応にしばしば不可逆的な方向性を与えるという意味では、同じ範疇に属する説です。

ヒトの遺伝子構成は受精時に決定されており、環境がこれ自体を変える事は出来ませんが、

微生物を含む様々な環境因子が遺伝子発現に介入し、その結果、ヒトの生理学的反応に大きな影響を与えている可能性が指摘されます。

これを「エピジェネティック」な影響と呼びますが、

食もまたエピジェネティックな影響を通してヒトの生理行動に大きな影響を与えている可能性は十分に考えられます。

従いまして、食と健康について深く考察する事は、健康な生活をおくるうえで大変重要な行為です。

現代病と衛生仮説~旧友仮説に関する参考文献

 

 ●Strachan DP. Hay fever, hygiene, and household size. BMJ. 1989 299:1259-1260

 ●Strachan DP. et al. Regional variations in wheezing illness in British children:effect of migration during early childhood. J Epidemiol Community Health.

  1990 44:231-236

 ●Strachan DP. Family size, infection and atopy: the first decade of the "hygene hypothesis". Thorax. 2000 55:S2-S10

 ●寄生虫なき病 モイセズ・ベラスケスマノフ 2014 文藝春秋

 ●フードトラップ マイケル・モス 2014 日経BP

 ●人体600万年史 ダニエル・E・リーバーマン 2015 早川書房

 ●失われてゆく我々の内なる細菌 マーティン・J・ブレイザー 2015 みすず書房

 ●進化医学 井村裕夫 2013 羊土社